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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 281

細長い闇 8  あしばんさん

ドンジュンが、のろのろとソファに近づく間に
男は、片手でクーラーから白いワインを取り出して
ふたつのグラスに注ぎ、ボトルを元に戻した
店でもよく目にする手慣れた動作は、流れるように優雅だ

そんな情景をぼんやりと見ていたドンジュンは
手を引かれて、男の直ぐ横にストンと座らされる
ふわりと広がった石鹸の香りが自分のものか、相手のものなのか…

バスルームでのスヒョンは、この上なく優しかった
ベッドでの荒々しさは夢だったのかと思うほどに

幾度登りつめさせられたのだろう
ひどくだるい身体は、湯の中で背中から静かに抱きしめられた
男は、濡れた髪を梳き、首の後ろに優しいキスを落とす
湯を繰(く)る小さな音だけが聞こえる空間は
普段、風呂はひとりで入るものだと言い張るドンジュンが
発言撤回もいとわぬほど心地よいものだった

「痛むか?」
「ううん…何ともない」

勿論、男は、どれほど我を忘れそうになっても
相手を傷つけるようなヘマはしない
ただ、ギリギリの想いの中で身体を預けてくれるドンジュンに
ほんの僅かでも肉体的な辛さを感じさせたくはなかった

そして、そんなことを確認せずにはいられぬほど
その日のスヒョンは、自らを制御できずにいたのだ



ソファに座るなり、柔らかく肩を抱かれた

「おまえ、朝まで起きないかと思った」
「ずっと起きてたの?」
「ものの30分ほどだ」
「そか…寝てたの…そんなもんか」
「何となく眠れなくてね」
「朝までここでこうしてるつもりだった?」
「かもな」

先ほど見かけた「ひとりきりのスヒョン」を思い出せば
これほど密着していて尚、落ち着かない
ドンジュンはグラスに手を伸ばして、冷えたワインを一気に飲み干し
自らつぎ足したものも空けて、テーブルに置いた

「スパークリングだったんだ…うまいね」
「ん…」

まともに目を合わせるのは、何となくおっくうだった
身体に残るスヒョンの生々しい感触と
自分の想いをうまく整合できずにいる

「でも、いい加減寝た方がいいよ…死んじゃうよ?」
「今日はゆっくりできる」
「店には出んの?」
「3日も空けたからね」
「いいのに…」
「ん?」
「店はダイジョブだから…無理しないでよ…頼むから」
「こんなやつを心配してくれるの?」
「…しょうがないじゃん」

それでも側にいたいんだから…

唇を突き出してムッとしているドンジュンの視線の先には
空のグラスが、ダウンライトの小さな灯りをテーブルに拡散させている
スヒョンは、もう一度そこにワインを注いで渡し
自分のグラスを手に取った

先刻は、雄弁に否定してはみたものの
ドンジュンの言ったことは、ある意味間違っていなかったのかもしれない
想いを遂げられぬ男をうまく演じれば演じるほどに
燃え残る煤(すす)で、身体はくすむ

ミンチョルとの濡れ場を演じ切って
閉じ込められ、行き場を失った火
それを、どれほどの仄暗い想いで封じ込めてきたことか

押さえて押さえて撮影に没頭してきた節目の夜
ひょっこり現れたドンジュンを抱きしめた時に
無性に欲しくなったのは事実だ
それを全く関係ないことだと言い切るのは
例えそれが真実でも、こいつにとってはかえって残酷だろう

いきなり、ドンジュンが席を立ち
グラスを持ったままテーブルを回って、向かいのソファに腰を下ろした
黒い瞳がいつものように真っ直ぐに射る
ふたりは暫く黙ったままだった

「あのさ…」
「…」
「…報告…半端だったから…」
「…」
「どんな気持ちかって…思ってくれてたんでしょ」
「レコーディングのことか?」
「うん…まともな報告はあると思うけど…そんなんじゃなくて…」

口当たりのいいワインと、男を正面に回したことで
話せるような気がしてきた
控え室でも綺麗にさらりと触れたつもりではいたが
しかし、一番話しておきたいことはまだ口にしていない
それは同時に、一番話したくないことでもあるのだが

「最初…まるでダメダメでさ…何度やってもうまくいかなくて…
 あれだと思うんだ…邪念ってやつ」
「…」
「だってさ、ガラスの向こうにいるんだよ、腕まくりしたあの人が…
 ちょっと前までヒョンジュやってた人が…
 プロデューサーの目で、ずっとこっち見てるんだもん…
 正直言って…集中なんて…まるきりできてなかったと思う」

下唇を少しだけ噛んで一点を睨みつけるようにするのは
何か言いにくいことを言う時のドンジュンの癖だ

スヒョンは、ひと言ひと言を聞きながら
グラスに何度か口を付けてはいるが、液体は一向に減らない
代わりに、ドンジュンは水でも飲むように
ゴクリゴクリとワインを飲んだ

「はふ…」
「…」
「でもね…楽譜を…歌詞を出してきたんだ…あの人」
「歌詞?」
「うん…」
「…」
「もう一度歌詞を読み返してほしいって、この歌のことを考えてみてほしいって…
 何が大事なのかってことなんだと…思う…」
「…」
「あの人って、普段はよくわかんない人だけど…
 やっぱり…何てゆーか…すごい人だって…」
「…」
「ちゃんと…映画のこと…スヒョンのこと…思ってるってさ…
 そういう意味では…僕なんかより…ずっとわかってるんだと思った」

それまで強く光っていた瞳がかげった
数時間前、抱けと挑むようにつっかかった彼も
控え室で何も言えずに立っていた彼も、そこにはいない

「どうしてそんな話するの?」
「どしてって…あの人のことで自分だけ知ってるのは困る」
「何で」
「何でって…何となく…スヒョンに隠しごとしてるみたいだし」
「ドンジュン…」
「スヒョンが、身代わりじゃないなんて力説するから」
「…」
「あの人…僕から見ても…やっぱり魅力的だって思うから…」
「…」

整理されていない言葉だけがぽろぽろと零れ出す
並べてみれば、それは彼の不安の裏側なのだが…
スヒョンは、何も言えずに相手を見つめ続けていた


突然の音が、静寂に割り込んだ

聞き覚えのあるメロディに
霞がかかったようだったドンジュンの頭が醒める
音の発信源は、隣の椅子に掛けてある自分のジャケットだが
早過ぎる朝のコールに一瞬戸惑った

「出ないの?」
「…ん」

気が進まぬまま立ち上がり、携帯を取り出せば
まだ鳴り続けている液晶には
あの冷たい目の男の名前が表示されていた
ドンジュンの頭の霞は、微塵もなく吹き飛んだ

「あっ…もしもし!」
『遅い!君の携帯は金庫にでも仕舞ってあるのか?』
「すみません」
『それでだ、君は昨日午後、NYにスケジュールデータを送る約束をしていたな?」
「ニュ…え…あっ…」
『向こうのCEOから、俺のプライベートNo.に直接連絡が入った
 ギスの会社にもこの時間じゃ繋がらないしな』
「あっ…こっこれから…」
『もういい、こちらで処理した』
「え…」
『済んだことはいい、ただし、先方に重ねて同じものを送るな』
「…はい…」

スヒョンが、グラスを一気に空けた

『で、別件だ、デザイナーの来韓が急遽繰り上げで明日になる
 よって本日午後1時よりランチミーティング、時間厳守、店は秘書から連絡する』
「…はい」
『間違っても、ハリョン嬢は連れて来るな』
「はい…あの…」
『本人の仕事の虫が切望してもだ』
「わかってます」
『以上だ、携帯は金庫から出しておけ』

いつものように一方的に切られるのと
ソファにどさりと座り込んだのは同時だった

「どうした?」
「…」
「ドンジュン?」
「…失敗した…すっかり忘れてた…」
「例の株主?」
「最低だ…そんな単純なミスするなんてどうかしてる」

堅く目を閉じて、うなだれた

「どうかしてる…」

ー自尊心を揺さぶるような他の理由があるなら、それを切るんだな
ー自分をコントロールできない状況を作らないことだ

いつだか聞いた、パク・ウソクの言葉が蘇った
同時に、真剣な目でやるべき仕事をこなしている
ガラスの向こうのミンチョルの姿を思い出す
情けなさと、悔しさと
そして「やっぱり」という自覚で胸が痛くなる

ふわりと空気が動き、あの石鹸の香りに包まれた
手に握りしめたままだった携帯が、静かに抜かれる

「ドンジュン…」
「ごめん…急に…こっちの話だから」

おまえだけの話じゃない…そう答える代わりに
彼の前に膝をついたスヒョンは
両手で頭を包み込み、その柔らかい髪に囁いた

「ドンジュン、少し寝よう…少し寝て一緒に朝メシ食おう」
「いい、スヒョン寝て」
「だめだ」
「だめじゃない!」
「ドンジュン…」

弱々しく落とされた肩

いつだったろうか…ギスの会社の会議室で
役員連中を前に演説をしていたドンジュンが浮かんだ
目を輝かせて、胸を張り、背筋を伸ばし
よく通る声は、そこにいる全ての者を惹きつけていたのだ

おまえは…
おまえらしくいられないのか?

…こんな男が側にいると

突然、ドンジュンの腕が引っ張り上げられた

「何すんの」
「向こうで休もう」
「いい!頭冷してここで寝るからいい!」
「意地を張るな」
「貴重な時間でしょ、スヒョン休んで」
「ドンジュン」
「いいから構わないでよ!もう今日は満足でしょ!」
「…」

また余計なひと言を言ったと思った瞬間
表情の止まったスヒョンの手の力が抜けた

そろりと下から覗き見ても、その想いを計ることはできなかったが
ゆっくりと自分の手の中に戻された携帯は、心なしか沈んで見えた

「おまえの…身体で満たされたかった…それは認める
 どうにもならなかった」
「…」
「でももう一度言う、ミンチョルを抱けないからおまえを抱くんじゃない」
「…」
「僕とジンは違う」
「…」
「だから自分で比べたりしないでくれ…他の誰とも」
「…へ?」
「そこまで追い込んでるっていう自覚の上で言ってる
 おまえはおまえなんだから…比べたりするな」

ドンジュンの、乾きかけて少し癖のついた髪に優しいキスが降りる

「先に休むが…ひとつだけ」
「…」
「僕に黙って出て行かないでくれ…おやすみ」


柔らかな灯りの下、隣室に消えた白い残像を
ドンジュンは、暫く見つめていた


甘えられるのは…8 ぴかろん

抱きしめられた俺は、奴の肩を押しながら慌てて叫んだ

「なな…なんだよ…生き返ったのか?」
「イナ…」

熱い吐息を俺の右耳に浴びせながら、ギョンジンは俺のシャツの下に手を入れた

「やめ…」

奴の腕を押さえようとしたが俺の手は簡単に跳ね除けられた

「やめろよ!や…」

右の耳に舌を這わせ、俺の動きも言葉も封じ込める
逃げなくてはと思うのに、俺の体のあちこちで奴を味わう味蕾が芽生え始めた
ギョンジンは俺の名前を呟きながら、俺をゆっくりベッドへ横たえた

「ギョンジン…ギョンジンやめろ…やめて…俺はそんな気になれない」

圧し掛かる体を押し上げようと抵抗しながら叫んだ
ギョンジンはふうっと体を離して俺を見つめる
ほっとした
酔った勢いだろう…

「…イナ…」

ごめんね、なんて囁いて、涙を浮べて俺にしがみつくはずだ、そうして欲しいと俺はギョンジンを見上げながら願った
でも、ギョンジンの口から出てきた言葉はまるで違っていた

「それはないだろう?ここまで来ておいて…」

安物の成人映画に出てくるような台詞を吐いて、ギョンジンは唇で俺の口を塞いだ
なんとかしなくちゃと焦り暴れた
邪魔っけだ…と呟いて俺の腹に馬乗りになると、奴は膝で俺の腕を押さえつけた

「痛いっ!どけよ!重い!」
「…うるさいな…」

口の端に浮かんだ笑みは、出会った頃の恐ろしいギョンジンのものだった
原因は解っている
ギョンビンに何かあったんだ
あの頃のギョンジンを呼び覚ますような事だったのだろうか…
店で見たときはそれほどまでにショックを受けているとは思えなかった

「怖い?」

ニヤっと笑って俺の顎を掴み、無理矢理くちづけをする
腕にギョンジンの重みが圧し掛かり、俺は顔を歪める

「痛いのか?」

体を起こし、俺を見下ろしながら鼻で嗤い、ギョンジンは俺のシャツの裾に手を置いた

「お前もピンク色が似合うね。可愛いよ…、テジュンさんがうっとりしてた…」

平坦な声でそう言ってギョンジンはシャツをしっかりと掴み、勢い良く引き剥がした
ボタンがはじけ、肌が露わになると、ギョンジンはまたニヤッと笑って俺の体に指を沿わせた
押さえられたままの腕の痛みと、触れられる体の快さとが交錯し、感じた事のない欲望が揺り起こされる
唇を噛み、声を漏らさぬよう我慢していると、腕の重みがなくなった
今止めなければ本当にどうなるか解らない
俺は奴に殴りかかろうとした
だが腕には痺れが残っていてどうにもならない
奴は憎らしい、冷たい微笑みを浮べながら、気持ちいいだろう?こういうのも…と俺を蔑むように言い放ち、チロチロと舌を動かした
怖いと感じると同時にその舌が体に這うことを想像し、揺り起こされた欲望が膨らんだ

「んふふ…色っぽい顔つきになってきたよ…たまらないな…」

ギョンジンの指は繊細に動き、俺の体の熱を上げていく
顎先から喉許までをくまなく滑り這う舌と唇に、俺は耐える
ギョンジンは俺の感じる場所を躊躇無く探り当て、的確に刺激を与え続ける
それは、俺が求めるちょうどいい強さの刺激で、理性が姿を消し、欲望が積もるのにうってつけだった
声を出さず、堅く目を閉じて気取られないように堪えていたのに、どこでどう察するのかギョンジンは、俺の欲望を一つずつ満たしていく
こんなふうにされて抗えるはずもない…
こんな男に抱かれているのか、ラブは…
なのにどうしてテジュンと…

「そう思うだろう?」
「え?」
「どうしてラブはテジュンさんのもとへ走るのか…。どうして僕じゃ満足できないのか…」
「…俺の…考えてたこと…わかったの?」

ギョンジンは俺の瞳を覗き込み優しく微笑んだ

「おや。当たるもんだね。いい加減に呟いたのに」
「え…」
「可愛いよ…イナ…」

優しさを一瞬で脱ぎ捨てて、ギョンジンは荒々しく俺の唇を塞いだ
舌を強く吸われ、息ができずにクラクラした
もがけ、舌を噛め、そうすれば逃げられる
頭の片隅に浮かんだ言葉は、ギョンジンに与えられる刺激で吹き飛んでしまう


僕達、一度、寝てみないか
あいつ等なんて何度も寝てるんだ
僕達だって寝てもいいはずだ…


それはあいつ等へのあてつけか?そんな気持ちで抱き合ったって心が荒むだけだ…
解っているのに流されている。ギョンジンの指があまりにも的を射すぎていて…
いつものギョンジンはどこへ行ったんだ?昔のギョンジンだってこんな『欲望だけを満たそうとする男』じゃなかったはずだ
どうしてこうなった?何があった?

ボタンの弾けたシャツに手首が通っているだけの俺の上半身をギョンジンは満足そうに見下ろしている
その刺すような視線から、なんとか身を隠そうとした

「いい眺め…」

言いながら自分のシャツを床に落とし、ギョンジンは俺に肌を密着させた

「…お前…痩せてるな…ふふ…」

喉元にしるしを刻むように吸い付き、そこら中を軽く噛みながら、ギョンジンは俺の右耳に辿り着く
体と体が擦れあい刺激が高まる。四肢の全てを使い、俺の、隠された欲求に応える
耳朶を噛むその微妙な力加減も、耳に吹きかけられる息の強さも囁きも、舌で与える刺激も全てが俺の求める通りの具合のよさだ
耳の下の柔らかなくぼみから、ギョンジンは俺の血を吸い上げるように痕を刻む
そしてすぐにまた、唇で耳朶を弄び囁く、…イナ…イナ…と…
別の場所で同時に弾ける欲望の弾薬に、俺は堪えていた声を漏らす
それを聞いてギョンジンは、更に俺の弱点を突く
もう耐え切れず、俺は喘いだ
このまま突き進んでいいのか、だめだ、でも…
こんなに感じてしまっているのに、どうやって留まればいいんだ…
ずっと抵抗を続けてきたのに、欲しい場所に欲しいだけのものを与えてくれるギョンジンに、俺は身を委ね始めた
組み敷かれていたからだを裏向きにされ、思い通りの刺激を受け、感じるままに声を出し、俺は一瞬、どうなっても構わないと思った

「…気持ちいい?」
「…ぁぁ…」
「お前…反応いいよ…思ったとおり…」
「ぁっ…は…」

まともな返事もできないほど、俺は夢心地だった
再び仰向けにされ、優しく深いキスを受けた後、ギョンジンは甘えるような声で俺に囁く…もっとよく…してあげるよ…
誰に?俺に?もう十分してもらったから…もういいよ、もういいから…
言葉を紡ごうとしても喉から這い上がってくるのは喘ぎだけだ
体中から快さの蔓が延びて俺を雁字搦めにしている
もっと欲しいだろう?もっと感じたいだろう?そう囁いているのは俺の体だ
ギョンジンは唇と舌で巧みに胸を撫で下りながら、俺のベルトを外し始めた

もう…もうだめだ…抗えない…
俺は欲望を満たしたくて堪らない
どうなると思っている?どうなってしまうのか解ってるのか?愛もないのに…
ほんの少し残っている理性のかけらが叫ぶ

ギョンジンは好きだよ
大好きな男だ
だけどこんな関係にはなりたくない
ギョンジンだってそうだろ?
俺と寝てしまったらどうなるか
そうすることで何を失うか、よく解ってるはずだ

さっきの店で俺を愛してると苦し紛れに呟いた
嘘だと解っている
本とは何がしたいんだ?俺に何をして欲しいんだ?
お前にもやっぱり黒い箱があるの?
それを…吐き出させなきゃ…

『俺にはまだ、その役割は与えられてないもん』

役割?
ラブ
それが俺の役割なの?
お前がテジュンを解して
俺がギョンジンを解す
そういうこと?

だよな
解ってたはずだ
ギョンジンがおかしくなるのはギョンビンに何かあったからで…

ギョンジンはジーンズを脱がせるのに手間取っていた
奴の舌と唇が俺の体から離れている間にどんどん頭が冷えてきた
体のほてりも喘ぎも鎮まり、奴から逃れるために体をずらそうとした時、ジーンズのポケットに突っ込んであった携帯が震えた
ギョンジンはビクリと動きを止め、その好機に俺は力を振り絞って跳ね起きた
ポケットから携帯を引っこ抜き電話に出る
『大丈夫か!』
切羽詰った声がした
途端に涙が溢れた

「テジュン…」

*****

テジュンからの電話と、細身のジーンズに危ういところを救われた俺は、暫く微動だにしなかったギョンジンを、ソファに沈み込んで見つめていた
どうしてこんな風になっちゃったんだろう
俺は何かしたか?ギョンジンを誘うようなことを何か…


『どうした?何かあったのか?』
「…なんでもない…大丈夫…なんでもないよテジュン…」
『ギョンジンに何かされたんじゃないのか?』
「何も…」
『何故泣いてるんだ!』
「…ギョンジンの…話…可哀想になって…」
『…本当か?』
「うん…心配しないで…大丈夫だから…。ありがと。切るね」
『イナ!』

受話器の向こうで、切るなという声が聞こえたけれど、呆然としているギョンジンをこのままにしておけなかった
かといって近づけばまたさっきの続きが始まらないとも限らない
俺はギョンジンに目をやりながら、後ずさりしてソファに座った
ギョンジンは半時間程動かなかった

「…ごめんね…イナ…」

小さな声で呟いたギョンジンは、のろのろとベッドを降りた
先程までの荒々しい空気は消え、虚ろになった男が幻のように俺の前を通り過ぎて行く
そのままバスルームに向かい、パタンとドアを閉めた
緊張が一気に解けた

もしも…あのまま…テジュンからの電話もなく、簡単にジーンズを剥ぎ取られていたら…間違いなく俺はギョンジンと…
そうそうなったら俺は…ギョンジンは…

上半身に芽生えて絡みついた俺の欲望は、理性を追いやって快を求めていた
テジュンの時ともヨンナムさんの時とも違い、ただ、体を満たすことだけを追っていた
そこに『愛』はなく、ギョンジンと俺の間にあるはずの『友情』も見えなかった
欲望の塊が、ゆっくりと、体だけ昇りつめようとしていた…
その代償がどれほどのものか、俺達にはよく解っているというのに止められなかった
テジュンに救われたようなものだ

アイツだけのせいじゃない…俺も共犯者だ…
交わらなくても同じ
俺達は罪を犯したんだ…

弛緩した体に疲労感が充満し、強烈な眠気に襲われた


甘えられるのは…9 ぴかろん

***

それが夢だと俺自身理解できていた
数十分前の、獣だったギョンジンと俺が、ベッドで絡み合っている

このまま突き進んでいいのか、こんなに感じているのにどう留まればいのか…
抵抗しながらも快感に手なづけられた俺は、ギョンジンに身を委ねている
感じるままに声を出し、確かにどうなっても構わないと思った
ギョンジンの甘い声が、もっとよくしてあげると囁き
理性が拒否する中、欲望が俺達を覆いつくそうとしていた
ギョンジンは唇と舌で巧みに胸を撫で下りながら、俺のベルトを外し始めた
そこで…奴はジーンズに手間取り、俺の電話が鳴り、俺達は我に返って欲望は消え失せたのだが…

夢は偶然飛び散った欲望の果てを見せた

ギョンジンは俺の体からジーンズを剥ぎ取り、唇で俺を包み込んだ
とてつもない快感に襲われる
ぞくりぞくりと強く背中を這い上がる電気信号
やめろと言う代わりに漏れるのは喘ぐ声
よせ…そんな事…テジュンにしか許してないのに…
ギョンジンの頭を押しやろうと伸ばした手は、逆にその頭を抱きかかえる
絶え間ない強烈な刺激に煽られ、息遣いが荒くなる
もう少しで達しそうになった時、ギョンジンの唇がそこから離れ、ほどなく器用な指があてがわれる
ギョンジンは俺の顔を見つめ、お前は可愛いと囁く
手を動かしながら開けっ放しの俺の唇に深いキスをくれるギョンジン
その首にしがみつき、解放の瞬間を迎える事を躊躇する
脚が突っ張ると同時に、ギョンジンは唇を離し俺の顔を見つめた
離された唇から漏れ出すのは、みっともなくいやらしい俺のよがり声
恥ずかしさと僅かに残った理性とを絞り出して、やめて…と言葉にする俺
引き返せなくなるのが怖い
だがギョンジンは手を止めず、俺の表情を楽しみ続けている

「やめて…も…だめだ…」

弾け跳ぶ…そしたら、なし崩しだ
ラブにもテジュンにも申し訳が立たない
だって次には…
いやだ…テジュン、怖い
いやだ…ヨンナムさんとも交われなかったのに
どうして恋もしてないギョンジンとそんな関係にならなきゃいけないんだ!
いやだ…怖い…触れられるだけでこんなに感じてしまうのに
もしこいつを受け入れたら俺はどうなってしまうのだろう…
心が伴わないのに、だめだ…いやだ…やめて…

思い浮かぶ言葉が伝えられない
ただ短い叫び声をあげ続けているだけだ…
もう…解き放たれたいと俺の体が震えている
だめだ…だめだ…だめ…

「っああっ…う…ふ…」

堕ちていく
テジュンも
ヨンナムさんも
ラブも
ひび割れて散り散りになる
これで満足か
十分に満たされたか

満たされるはずがない
地面に叩きつけられてそのまま朽ち果てればいい…俺なんか…

砕け散った俺はギョンジンに抱きとめられ唇を塞がれる
涙を流し、全てのものに許しを乞いながら、俺は諦める
ギョンジンは俺の両足を抱え込み体を押し付ける
長く悦ばされた体はすぐにでもギョンジンを受け入れられるだろう
いつその瞬間が来るのかと、俺は虚ろに待つ

「ふ…ぅふ…ぅふふははは…」

突然、ギョンジンは俺に縋りついて肩を震わせた

「ごめん…いな…ごめん…、できな…できない…」

凍り付いていた頭に血液がドッと流れ込んでガンガンと痛み出す
ようやく口を開いてギョンジンに聞く

「でき…ない?」

あどけない顔をして答えるギョンジン

「…できない…できなくなっちゃったんだ…ぼく…」

***

熱いシャワーを浴びる
痛いぐらいの熱さに僕の肌は悲鳴を上げる
僕は今、何をした?
僕の大切な友達に何をした?
甘えるにも程がある
何がしたかった?!


怖かった
ここに帰って来るのが

携帯の受話器から聞こえたミンチョルさんの声は本物だったのだろうか
僕が『そうであってほしい』と願ったからミンチョルさんの声に聞こえたんじゃないだろうか…
いや、確かにミンチョルさんだった
そして「ミン」と話しかけていた
マンションに居るんだ…どこへも行かず、帰るべき場所に弟は帰ってきているんだ

イナに手を引かれ、タクシーに乗せられ、僕はイナと二人でマンションに戻った
車の中で何度もイナの手を握り締めた
その度にイナはもう片方の手で握り締めた僕の手を擦ってくれた

タクシーを降りて、コンシェルジェのトンプソンさんを見たとき、ギョンビンの様子を尋ねてみようかと思った
それをしなかったのは、イナが僕の手を引いて彼の横を素早く通り過ぎたからだ

エレベーターに乗り込むと、イナは僕を壁際に押し付け、そして僕から手を離した
急激な加速度の変化に、僕の体は浮き上がりそうだった
今までそんな事感じなかったのに…

涙が出そうだった
何故手を離す…僕がお前を頼りにしてるのを知ってるだろう?イナ…

扉の前に立つイナの背中はピリピリしていた
僕がお前に何かするとでも思ってるのか?

クラブで、ラブとテジュンさんが滑らかに抱き合っているのを見て、僕は羨ましかった
あの人はラブに甘える。どうしてイナに甘えない?

イナは一人で踊っていた
イナが何かを抱えているのは知っていた
でも…僕はイナに縋った。どうしてラブに縋らない?

何故だろう…テジュンさんも僕も、何故愛する人に全てを曝け出せないんだろう…

ギョンビンの顔が浮かんだ
弟は?全てをミンチョルさんに曝け出せる?
いや…あいつは僕以上に想いを閉じ込めてしまう…
僕のせいで弟は、また余計な心配事を抱えてしまった
どうして僕はこうも情けない兄貴なんだろう
いつだって守りきれない

次から次へと思考が逸れていく
腕の中にいるイナに『寝よう』と誘った
イナは僕の言葉をはぐらかしながら、それでも僕を解きほぐしてくれる

僕は
何も
成し遂げられない
何ひとつ
うまくいった例がない
だめな男なんだ…だめな…

そんな弱音はイナにしか言えない
僕はイナにしか甘えられない
どうしてだろう…どうしてラブに言えないんだろう…僕は…

それは多分、言いたくないことは言わずにおけるからだ。イナは余計な事は聞かないもの…
ラブに、見せたくないところを隠しておきたいんだ、見栄っ張りだから…


40階に着いて、イナが先に降りていった
僕は、一人では、この箱から降りられないんだ
イナが手を引いてくれなきゃ降りられないんだ
ぐずぐずしていると、案の定イナが僕を引っ張り降ろしてくれた

ミンチョルさんの部屋のドアを凝視する
見つめていれば中の様子がわかるかもしれない

僕は現実から逃れたくてたまらない卑怯な男だ

イナに抱えられて僕は部屋に着いた
イナは僕を突き放すように部屋に押し込んでドアを閉めようとした

一人になりたくなかった
怖かった
怖かったからあいつを抱きしめた…


慌てたイナの体は強張っていた
けれど、僅かに僕の動きに添うものを感じた

なぁんだ
こいつ、寝てみたいんだ、僕と…

そう理解した
イナは抵抗しながらやめろと言い続けた
けれど、もがく腕に隙があった
本当にイヤなら、こいつは僕から逃れられるはずだ
イナは抱かれたがっている…

横たえてもまだ暴れ続けるイナを見下ろした
そんな気はないと叫んだイナの中に、全く逆の気持ちが見えた

やっぱり、僕と寝てみたいくせに…
…なのになんだよ…

「それはないだろう?ここまで来ておいて…」

唇を塞ぎ、腕を膝で押さえて、イナの小さな欲望に応えてやった
まさかそれが僕にまで飛び火するとは思っていなかった

引きつった顔や抵抗する仕種は、初めて出会った頃のイナを彷彿とさせ、それは同時にあの時の荒んだ僕を思い出させた


僕は
卑劣な男
僕は
弟を愛している
弟は僕の
僕だけの宝物だ
誰も僕から奪い取れやしない


ある程度のところで留めようと思っていたのに、僕の行為はエスカレートするばかりだった
与える刺激に面白いように反応するイナに驚いた
卑劣な男であるはずの僕は大いに戸惑った
イナの、欲しがるところが、解る
ここだ
ここも
そこも
ほら…
なんて可愛い男なんだ、お前は…
もっと悦ばせてあげるよ、もっと…
夢中でイナの体に這い蹲った

昔、弟を傷つけてしまった時や何かで失敗した時、僕はこんな風に『恋人』を夢中で抱いた
こんな事で挽回しようとしていたのだろうか…
今もきっとそうだ。イナの欲望に応えてやる事で、ギョンビンを守りきれなかった分を取り戻そうとしてるんだ、僕自身のために
歓喜に彩られる『恋人達の表情』は、『必要とされている僕』という、欲しくてたまらなかった称号を僕に与えてくれた

僕にイナが必要なように、イナにも僕が必要なんだ

止まらなかった。イナを満たそうとした。イナの望みを叶えてやりたいと思った
けど、それはただの思い込みだったのかもしれない
だとしたら僕は…僕の『甘え』を、イナの『欲望』にすり替えただけにすぎない

細身のジーンズに手間取りながら僕は葛藤していた
留まるなら今しかない
これはイナの欲望に応えているではなく、僕の、甘えから来る行動なのだ
いや違う、イナが欲しているのだ、そうしてくれとイナの体が叫んでいるのだ
その時、イナのポケットの電話が震えた
イナは飛び起きて電話に出、僕はその場で凍りついた
テジュンさんの、ラブの、ギョンビンの顔が浮かんでは消えた
甘えるにも程がある…イナを巻き添えにしようとした…

いつだったろう、ラブに襲い掛かろうとしたテジュンさんをぶん殴ったのは…
縋りたい人が傍にいたらそいつのせいにして昂ぶる気持ちを紛らわせたくなる
今になって貴方の気持ちがよく解る

皺の寄ったシーツを眺めながら、僕は自分を罵った
そして、震えた電話に感謝した…僕を止めてくれたことを…


イナに謝らなくては
許してくれなくても謝らなくては
どれだけ傷つけたろう
怖い思いをさせたはずだ

バスルームを出て、ソファでまどろんでいるイナの顔を覗き込み、声をかけた…


Linkage3 再会 オリーさん  

ドアを開くとそこには寝起きの頭が立っていた
やあ、と片手を上げて

驚いて立ちすくんでしまった私に
クリスは、せっかく歓迎しに来たのにその顔はないだろ、と笑った
そこで私はクリスを招きいれた

フランクフルトで乗り換え、ミュンヘンにたどり着いたのは9時過ぎ
ホテルに入ったのは10時をすぎていた
クリスには空港から明日そちらに行くと連絡を入れたのだが
目の前にはくちゃくちゃ頭の本人が立っていた
ワインの大瓶を下げて

部屋に入るとクリスは中をぐるりと眺め
相変わらず贅沢な奴だなあ、と言った
何のことだと、私が聞くと
お前スイート以外知らないだろ、とクリスはまた笑った
祖父の代から定宿なんだ、と答になっていない返答をする
変わってないなあ、と彼の笑顔はさらに大きくなった

それから、とりあえず再会のハグでもしてくれ、と
片手に大瓶をぶら下げたまま両手を広げた
私たちは再会のハグをした

備え付けのグラスを取り出し、ソファに落ち着いた
クリスの持ってきたワインは見たこともない銘柄だった
地元では一番のワインだ、安いが美味いぞ、とクリスは太鼓判を押した
試してみよう、と私は栓を抜いた

グラスにお薦めの白ワインを注ぎ乾杯をする
寝起きのクリスに、私が言うと
気どった金持ちにとクリスが返した
私たちは笑いながらワインを口に運んだ

なかなかいい味だ
そうだろ?これをリーズナブルと言うんだ
チーズがあればなおよかったな
あちゃ、確かにそうだったなあ
クリスはまたくちゃっと笑った

それにしても、そんなにこの僕に会いたかったとはねえ
2杯目のワインを注ぎながらクリスが言った
会いたかったのはそっちだろう、メールを送ったのはそっちだ
私も負けずに言葉を返した

こんなにすぐすっ飛んでくるとは。仕事の方は大丈夫なのか?
全然問題ないと答えた
仕事はもうないんだから…
だがクリスは知らない
相変わらず優雅だなあ、大学は休みかと聞いた

いや、クビになった
は?
クリスは目を丸くして口元に運んだグラスの手を止めた
何度も言わせるな、先日クビになった、と私

寝起きの頭はしばらくじっと私の目を見ていたが
ふいに大声で笑い出した
こりゃいいや、ぷははは!
部屋の中にクリスの大きな笑い声が響いた

失礼な奴だな、人の不幸を笑うとは
いやいや、ワインバーグ先生失礼しました
嫌みを言わないでくれ
傑作だ、西洋の常識が東洋では通じないということか、え?
何とでも言ってくれ
そりゃ、ヒマなわけだ。ぷははっ!

クリスは大いに楽しんでいる
予想以上だ

わざわざこんな楽しい話題を持ってきてやったんだぞ
クリスに恩着せがましい口をきいた
確かに楽しい、まったく何があるかわからんなあ
クリスはまた屈託なく笑った
この天才は笑う時は思い切り屈託なく笑う

だが笑いすぎだ、そろそろ話題をかえよう

そっちは順調なんだろう?
まあね、ぼちぼちかなあ
ノーベル賞はまだかな?
興味ないね、あれはすべて終えた者へのご褒美さ、受賞者の年齢を見ろよ
クリスはさらりと言ってのけた

新進気鋭のお前はご褒美を貰うのは早すぎるか?
ノーベル賞の魅力は賞金だけだよ。僕は今不自由してないんだ
これもさらりと言ってのけた
彼が言うのならそうなのだろう
スポンサーでもついたのかと聞くと
財団から寄付金をもらっているという答だった

自由に使える金で助かってる、僕はそういうことはからっきしだから
クリスはそう言ってまたワインを飲んだ

本音だろう
確かに彼は研究者同士の足の引っ張り合い、駆け引き、資金調達の根回し、
そういった類の事には向いていない

自分の成果のためなら、後ろからでも人を刺す
それくらいでないと世に出せる研究などできないのだと
いつか別の友人から聞いたことがある

実際、研究に資金が要ることも確かなのだ
整った研究設備、高価な実験機器、優秀な助手
これらは金がないと手に入らない
だから大きな資金を動かせる所が良い成果も生める
理想だけでは成り立たない世界はどこも同じ

研究以外のことに時間を割くことを嫌うクリスは
そういう面では苦労していたのかもしれない
そんなことは口に出さず
おかげで一区切りついて後はまとめるだけだ、と言った

じゃあ、もう一度乾杯しようと誘うと
失業者に、クリスが笑いながら言った
私は敬意を表して、勤労者にと杯を上げた

私たちはお互いの近況を語り合い、久しく穏やかな時間を過ごした
ワインが半分以上減った頃、私は思い切ってクリスに聞いてみた

ところで、お前に何か貸していたろうか?
勘のいいクリスはメールのことかい、とすぐ答えた
そうだ、思い当たらないが
そりゃそうだろ、僕だってお前に借りた物なんかないさ
クリスはあっけらかんと答えた

私は重ねて聞いた
じゃあ何のことだ?
頼まれ物だよ、アーメッドからの
サラから?
ああ
頼まれたって、いつのことだ?
一年ほど前だよ
一年前?
そう、いきなり研究室にやってきた
お前の所へ?
そうだよ。突然でこっちも驚いたけどねえ

私は、クリスの口からあまりに簡単に出たサラの名前に動揺した
一年前と言えば、あの事件の前…
なぜ…だ
たまっていた澱が一気に胸の中で沸き立ち
それが頭の方まで伝わってきて何かがはじけそうだと感じた時、
我を忘れた…

なぜ…お前なんだ?
え?
なぜお前なんだ、クリス?
なぜって…
なぜ、なぜサラはお前に会いに来て私の所へ来なかった?なぜだっ!

私は隣に座っているクリスの胸ぐらを強く掴んでいた

いい男だなあ
開いた扉の向こうに立っている男の姿に思わず見とれた
見るからに仕立てのよさそうなスーツ
ネクタイはスーツによく合ってるし
中からちょっとだけ見えているアーガイルのベストがこれまた

ますますいい男になったなあ
どうしてお前はいつもいい男なんだ?
若いころから変わらないねえ、エリック

僕はエリックから電話を受けた後、
しばらく考えてあいつを訪ねることにした
明日の前に会っておいた方がいいだろう
頭の隅でそんな囁きが聞こえたから

あいつの口に合うかどうかわからないが、
買い置きのワインを下げて、僕はあいつのホテルに向かった

そして僕たちは再会し、両手を広げて抱き合った
久々のハグ
相変わらずいい香りがしてるよ
僕が女だったら卒倒してるところだ

友達の少ない僕にとって
学生時代のエリックは救いの神だった
専攻が違うので、変に意識されることがないのが助かった
裕福な家の出なのに嫌らしさがなく
丁寧で謙虚で、その上大らかだった
育ちがいいと言うのはこういうことなのだろう
ただ知識だけを求めてボストンにきた僕が
わずかでも学生気分を味わえたことは今でもありがたいと思ってる

ただある日突然、もう一人のあいつが姿を消したこと
あれだけが、今でも気がかりだったのだが・・・


エリックにいきなり胸ぐらをつかまれて僕はあわてた
こんなエリックを見るのは初めてだ
激昂している
あのエリックが…

落ち着け、エリック、落ちつけよ
そう言ってなだめたが、エリックは僕の体を激しく揺さぶり
何度も同じ言葉を繰り返した

なぜ…なぜ…私のところへ来てくれなかった…

尋常ではないその姿に、僕も大きな声を上げた
落ちつけっ!これじゃ話もできないだろっ!
興奮した友人は小さなひゅっという音とともに呼吸を止め、
すまなかった、という呟いてから小さく息を吐いた

それからゆっくり僕を掴んでいた手をはずし、ソファに背にもたれ、天井を仰いだ

互いの呼吸が正常に戻るまでの何分間か、僕は待った
取り乱した友人は天井を仰いだまま動かなかった
懐かしい邂逅は一瞬にして終わり
ステージは新たな段階に入ったと感じた
踏み出してみようか・・・
深く深呼吸してからエリックに話しかけた

なぜお前でなく僕なのかって、僕だって考えたよ
当然だろう?僕はお前たちのことを知っている

僕の言葉に、天井を見上げているエリックは目を閉じた
僕はかまわず続けた
大学以来初めてあいつに会った。そして頼まれた、それだけだ。
アーメッドのことは僕も時折思い出していた。何かあったのか?

音のない時間がどれほど経ったろうか
エリックはゆっくりと頭をもたげこちらを見た
そして言った

サラは死んだ・・・私が撃った

頭の中に雷が落ちたような衝撃
何だって・・・
今何て言った?

豪華な調度品に囲まれたホテルの一室が色をなくした

何てことだ
何て…


わけは…何か…理由があるんだろ?
やっと絞り出した自分の声が随分小さく聞こえた

焦点の定まらない視線をこちらに向けていた友人が呻くように言った
聞いてくれるかい?
僕は深く頷いた

その話は、静かな抑揚のない声で語られた
少しでも情が働けば話し続けることはできない
そんな話だった

こんな巡りあわせがあるのだろうか
これを運命と言うのだろうか
時が止まり、そして戻すことができるなら…
でもどこまで…

話の最後にエリックが呟いた
罪の意識はあったけれど、後悔はしていなかった、ボストンに行くまでは…
それから僕はエリックが泣くのを初めて見た
細胞のひとつひとつから哀しみが流れ出ている
そんな泣き方だった

酸欠でもないのに息苦しく、ヒーターがついているのにひんやりとする
そんな不思議な感覚の中で、僕は必死に頭を回転させた

僕にできることは何か…
クリス、考えろ!
こんな時こそロジカルに、クールに
セオリーを組み立てる時のように
一年前を思い出せ…

頭の回転がおさまったのを確かめて、僕は用心深くエリックに語りかけた

事情はわかった。今の話を聞いて、いくつか理解できた事もある。
一年前にアーメッドに会った時のことを話そう
うつむいていたエリックが顔を上げた
涙が薄い膜になってエリックの瞳に張りついていた


一年前、あいつが来た。もちろんアポなしだ
だがもちろん会ったよ、あれ以来だしな

まず渡されたのは、薄いレターサイズのファイルだ
中身はわからない、言わなかったし、聞かなかった
それを僕に渡して、一年経って取りに来なかったら、
お前に渡してくれと言われた
人を介さず郵送はせず、お前に直接に渡すよう念を押された

僕はその時言ったよ、なぜ直接渡さないのかと
それができるくらいならこんな所までくるかと、あいつは答えた
笑っていたが、眼は笑っていなかったな
それで何か事情があると思った

なあエリック、お前の所へは行けなかったんだ
たぶんその頃にはお前もマークされていたんだろうな

あいつの印象は、そうだな…言われてみれば、銃のようだった
マジンガンじゃなく、短銃だ
使い古されて硝煙の匂いがしみついた拳銃
学生時代の名残は微塵もなかった
だが、不思議と眼だけは澄んでいた
それは憶えている

僕は聞いてみたんだ、なぜ一年なのかと
あいつは言った
それまでにすべて片がつく、と
律儀に約束を守ってくれる人間は僕しか思いつかないとも
僕ならきっちり一年という約束を守ってくれるだろうとね
だから言ってやった
一年先のスケジュールに入れといてやるよ、と

実際、そうした
ある朝パソコンを覗いたらスケジュールに出てきた
それがメールした日だよ

もうひとつ大事なことがある
これは言わないつもりだったが
今の話を聞いて、教えた方がいいと思うから言うよ

アーメッドはたぶん長くなかった
やつれていて、全体的にくすんで見えた
どこか悪いんじゃないか、と聞くと
あいつは黙って笑ってた
MGHやメディカルエリアの知り合いに紹介してやろうかと言ってみた
あいつは首を横に振った
ボストンには時々行ってる、リチャードにも会ったと

そう、あのリチャード・ヘイマーさ
今はMGHの癌センターの所長だ
ピンときた
リチャードには診てもらったんじゃないかって
あそこで無理なら、残念だが仕方ないだろう

それ以上、僕には踏み込めなかった
余計な事は聞いてくれるな
あいつはそういうオーラみたいなものを出していた
だから・・・僕にも責任があると思う
あの時、踏み込めなかった
踏み込んで、どうにかできたかは別問題だと思うけど
とにかく僕はあいつを黙って行かせた
それは事実だ

あいつがドアを開けて出て行ってから
何かあいつに言わなくちゃと思って
あわててドアのところまで行って叫んだ
あいつの後ろ姿に向かってね
エリックにはきっと渡す
あのレストランのステーキは美味かったなって

アーメッドは振り向いて笑ったよ
親指立ててね
あの笑顔は昔のままだった
何であの時、あんな事しか言えなかったのかな
もっと他に言うべきことがあったはずなのに
まぬけだな…ほんと

これで終わりだ
何か聞きたいことはあるかい?
言い漏らしたことがあるかもしれない
もしその気があるなら、リチャードに連絡してみてもいいけど
あいつ、今でもすかしてるかな


僕の話が終わってまたしばらく時が経った
ふいにエリックが言った

なあ、クリス
お前はちゃんと約束を果たした
まぬけでも何でもない

そうかな?
そうだよ

サラがリチャードの所へ行ったかもしれない
その話は知らなかった
もしそうだとしても
私のやったことは変わらない
そうだろう?

ああ、そうだね
でもさ、何で最後の最後にあいつ、なぜお前のところへ行ったと思う?
お前の所へ行けず、かわりに僕の所へ来てさ
それでも最後には…
何でだと思う?
タイムリミットだよ
どうしても、最後に会いたかったんじゃないのか?
そうに決まってるだろ?
だから、あいつは…アーメッドは満足したさ、お前に会って
たとえ…つまり…
とにかくそうに決まってるだろ!

そう言った途端
僕はだらしなくも涙を流してしまった
ロジカルでクールな僕なはずだったのに
僕はエリックを慰めなければいけないのに
ああ、だらしない

クリスが突然泣き出した
くちゃくちゃ頭の天才のクリスが
いきなり泣き出した
それを見て私は
クリスの存在もまた、かけがえのないものなのだと悟った

今まで誰にも話せなかった事を、旧友というだけで一気に吐き出してしまった
それをクリスは受け止めてくれた
とても真摯に…

サラは最後に私に会いに来た
そう言ってくれた友人がもう一人いたことも思い出した
空港で見送ってくれた君だ

何も変わらない
私のやったことは
だが、それを受け入れる冷静さを、強さを持たなければ
泣いてくれる人のために

私はクリスのグラスに残りのワインを注いだ
クリスはその半分を私のグラスに戻した
二人で黙って乾杯した
それで十分だった
いつかクリスに、感謝の言葉を捧げたい

その夜、クリスは私の部屋に泊まると言い張った
このホテルの大きなベッドに一度寝てみたかったという理由で
私はその申し出を受け入れた

旅の疲れが出たこともあり、横になるとすぐ眠れそうだった
夢で、せめて夢でもう一度会えたら
聞きたいことがたくさんあるのに
まだ、お前は夢に出てきてくれない
今夜もだめなのだろうか…


エリックが寝息をたてはじめたので、僕はやっと安心した
眠りについた美しい友人の横顔をしばらく見ていた

僕はふだんは信心深くないが
この世に神はいるのだろうかとふと考えた
もしいるとするなら、
神はそれを耐えることができる者にのみ過酷な運命を与えるのかもしれない
そんな気がした
エリック、だから…

再会の夜は、こうして静かにふけていった






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